青竜泉の泉質・効能

泉質/ 含弱放射能、ナトリウム、カルシウム、塩化物温泉

泉温/ 41.1℃

性状/ 無色 透明 無臭 微塩味

泉質別適応症(塩化物泉)/ きりきず、やけど、慢性皮膚病、虚弱体質、

                   慢性婦人病、痛風、動脈硬化症、高血圧症、

                   慢性胆のう炎、胆石症、神経痛、関節痛

 

温泉銭湯“元湯”ぴーすふる青竜泉

山陰でも有数の景勝地として知られる西長門ブルーライン沿いにある、

太古の青竜伝説を持つ温泉銭湯、ぴーすふる青竜泉。

下関市近郊の温泉地、川棚温泉の元湯として

その歴史は古く、敷地内の泉源からは、

ふんだんにお湯が湧き出る“元湯”が自慢の温泉銭湯です。



湯量も多く、源泉に沸いたお湯だけで100%お湯を満たし、

  あふれたお湯は使い捨ての、いわゆる掛け流し式の温泉銭湯です。 

寿永時代から続く伝統あるこの源泉の温度は41.1度、泉質は弱アルカリ性で、

  慢性婦人病、慢性皮膚病、痛風、動脈硬化等に特効があるといわれております。


更に家族風呂も4室有り、ご家族でのくつろぎの湯として人気を博しております。

安値で気軽に立ち寄れる、温泉銭湯として人気です。

800年の歴史・川棚温泉郷

■■ 川棚温泉の由来 ■■

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安徳天皇の寿永2年に至って始めてここに温泉が発見されたが、

時の領主の平定盛は湯屋を建設し、銭湯を定められ、

青竜権現を温泉守護の神とした。

 

ところが、温泉にも栄枯盛衰があって、

鎌倉時代の末期から南北朝時代にかけて騒動が続き、

国は大いに乱れ、地方では大内、厚東、豊田などという豪族が相争い、

朝には南朝に組し、夕には北朝に寝返り、

戦乱が明け暮れ続いた為、住人は塗炭の苦しみを見た。

 

従って、温泉どころの騒ぎではなく、

荒れ放題となって、いつしか埋没してしまった。

 

応永年間に至って、川棚の三恵寺に怡雲(いうん)和尚という高僧がいました。

この僧は名刹三恵寺の廃退しているのを嘆かれ、

これを再興された中興の祖で内日村の出身であった。

 

師は当時跡形もなくなった温泉を、

世の中の多くの病人のために寺領の土民に命ぜられて発掘したものである。

吉永村の庄屋、幸左ヱ門が元文4年に提出した、

「地下上申」のなかには、

「吉永村の一ノ内と申すは応永年中の頃川棚の湯壷を掘りし時分

 一番の内に掘出し申し候にフ主一ノ内と申し習わし候由地下人申伝え候」

と、あることから、正しくこの怡雲(いうん)和尚 が

寺領の土民に湯壷を掘らせたことがわかる。

 

この和尚は応永20年頃、京都の金閣寺に住ませられた時、

三代将軍足利義満の画像に賛せられ、それが国宝になっているから、

当時の高僧であったものと思われる。

 

三恵寺には、応永24年頃、

和尚が晩年再住せられたという以上のような関係から

怡雲(いうん)和尚をもって「川棚温泉の開基」としている。

 

その後、温泉も次第に世に知られ、

旺盛したもので、毛利氏の世となってからは、

長府藩の毛利綱元が元禄6年に入湯に来られるにあたり、

御殿湯を創建し、湯屋庄(永富氏)を置き、

お茶屋(益本氏)を定められたものである。

 

その後、代々の領主が入湯に来られたものであるが、

明治4年廃藩置県と共に毛利氏はこれを地元に下附された。

 

(豊浦町名勝史蹟と由来集より)

 

 

 

青竜伝説

青龍が見守る川棚温泉 

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大昔一大沼地だった川棚には巨大な青龍が棲んでいましたが、

欽明天皇の時代に大地震があり亡くなってしまいました。

里人は哀れに思い青龍権現として祀ると、温泉が涌出したと伝えられています。

その後、川棚温泉は三恵寺の怡雲(いうん)和尚によって中興されました。

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